遠野物語再読
以前、話題になっていたころ読んでみたがさっぱりわからなかった。なぜなら、私はまさに遠野の目と鼻の先で生まれ育ったので、当たり前の日常が書いてあるだけではないか・・と思った次第。
ずいぶん年月が経ち、ラオスに行き、田舎の人々の暮らしに触れたり、アーティストたちと旅をしてゆく中で、作品や生き方に対する考え方が大きく変わった。彼らが大切にし、共に生きているものは人智を超えたものだった。具体的には目に見えない大自然と共存してゆくこと。そこで発生するさまざまなイマジネーション。
ところが遠野物語を再読して思う。私が生まれたとき、私の身の回りもそうだった。なんだかラオスまで行って、大回りして元に戻ってきた。自分の身体の中に何らかの記憶が埋め込まれていたので、こんなにもラオス文化に反応できたのかもしないと改めて思う。しかし大きく違う点はラオスではまだぎりぎりそのあり方が人々のくらしやイメージの中に残っているが、日本には、生きたあり方としてはほとんど残っていないということだ。地方には、まだあるのかもしれないが・・
« マレーシアの影絵 | トップページ | こんなに身近にたくさんの死が・・ »
「メコンの木霊(日記)」カテゴリの記事
- 初冬、夜の首都高(2023.12.08)
- 祈りが足りない。(2023.11.28)
- 理解できないから面白い?(2023.11.25)
- 来日したカオニャオ(2023.11.17)
- 魚のしっぽのスーツ(2023.10.31)