東京国立博物館で長谷川等伯作「松林図屏風」を展示中というニュースを見てさっそくでかける。ずっと生で見たかった絵。写真ではよく知っていたが、生で観るとやはり圧倒された。なぜか日本画、しかも水墨画に近いものが好き。一番好きなのは俵屋宗達だが、彼の代表作である「風神雷神」ではなく水禽図という小さな地味な作品を30分も口をあいてみていたことがある。松林図も「写実的」という概念からちょっと違う。淡いけぶるような絵なのに そこから湿った空気が風となって吹き抜けてくるようだ。離れて観るとまぼろしのようなのに 近づくと松の激しいタッチに思わず後ずさる。何かとても激しい哀しみを感じた。撮影OKでスマホで撮ったが、生の絵の迫力にアップするかどうか迷う。とりあえずアップするけど、なるべく生で観てください。
ずっと問題があった奥歯をやっと抜歯した。昨年は背骨を手術し、先日はコロナになり痛かったり、熱発したりと忙しいがいつも薬の力に唖然とする。特に鎮痛剤。モーレツな痛みが30分後に鎮まる。そして抗生物質。でかい奥歯を無理やり抜歯したのに化膿することもなく翌日は普通に働いていた。たぶん普通に日本で暮らしている人は、あんがい当たり前だと思っているかもしれない。しかしラオスで歯痛をはじめとしたさまざまな痛みに苦しんでいる人、そして痛みは治るまで続くのが当たり前だと思っている人たちを見ていると私たちがあまりに医学の力で楽をしていることに驚く。たぶん戦場で負傷した人の多くはその傷の化膿から敗血症になり命を落としているはずだ。そして命を守るアオカビたち、抗生物質が誕生してまだ100年程度しかたっていないはずだ。以前は結核をはじめとして感染症になったらかなりの確率で助からなかった。私自身結核既往歴があるが、結核自体で「死」を考えたことはない。しかしこれが決してあたりまえのことではないということを認識したいと思っている。
活動のハイライトは 11月のラオス行きだったが1年を通してひっかかっていたのは 他国とのコミュニケーションとくに字幕ということだった。1月から2月にかけてトーと日本の演出家のトークに字幕を付けたが、いざ始めてみて全く頭を抱える。トーは日本の普通の感覚とは全く違う感覚でものをとらえるし、概念からして違うし、ラオス語の言葉、または日本語ともA=Bには絶対ならない。その深淵が知りたくて長い間ラオスと付き合っているのだが 知れば知るほど訳せなくなる。youtube世界の様々なコンテンツに字幕がすぐにつかないと文句を言う人が多いが、たとえば韓国のBTSのインタビューなど字幕を付けた人のとらえ方によって全然意味が違うことを言っていることになる。隣の韓国と日本でさえ感性はズレているのだ。今でもラオスの概念を受け入れるのが大変なことは山盛りある。ちがう感覚で生きている人々と協働してゆくには こちらも多様性をどう受け止めていくか真剣になる必要がある。
Wカップやオリンピックのアスリートを見ていると全く信じられない。私がかなりプレッシャーというものに弱いからだ。ひとりで海外で仕事をしたりしてきたので強いのだろうと思っている人がいるが、とんでもない。20代から最近までずっと舞台で仕事をしてきた。舞台は毎日あるわけではない。どんなに頻繁にあっても前日は不眠でひどいときは食事がのどを通らない。それだけではない。未知の方と会わなければならないことがあるとそれだけで動悸がする。プレッシャーに打ち負かされると視野が狭くなる。全体を俯瞰してみられないと物事はうまく進まない。毎回一発勝負のアスリートは、本番で落ち着いて全体を俯瞰しなければならない。どんなに実力があっても世界の舞台でそれができるっていったいどんなメンタルなのだろうと思う。